山野敏夫の部屋

エスペラントとの出会いは高校生の頃に自作の短波受信機(当時は真空管時代)で海外放送を聞くようになったがきっかけです。 受信した放送局名の確認や何語の放送かを知るため外国語に関心を持つようになりました。 受信した放送に対し受信レポートを出すとベリカード(受信証)や放送のスケジュール表 などが送られてきました。

その中でラジオローマから送られてきた海外向け放送のスケジュール表に"Esperanto"という文字が目につきました。 エスペラント語は世界共通語として考案された人工語ということは知っていましたが 実際に利用されていることをこの時に知りました。 一度聞いてみたいと思いましたがヨーロッパ向け放送のため無理とあきらめていました。 何年か後に受信できました。

その後、購入した"World Radio Handbook"にもエスペラント語放送を行っている局とスケジュールがが掲載されていました。
社会人になって何年か後に、豊中市立中央公民館主催の無料のエスペラント講習会(週に一度 で10回)の募集がありました。 申し込み受け付け日に行くと50人の申し込みに対して大勢の人が並んでいて人数制限で無理かと思いましたが一応全員(50名を少しオーバしていた)受講を受け付けてもらえました。このときの講師は小西岳さんでした。後に小西岳さんは私の高校の先輩ということがわかりました。なお校歌は北原白秋作詞、山田耕
作曲の旧制中学のものから2番の歌詞を除いたものですが山田耕筰もエスペラントを学んだことがあると知って嬉しいです。

丁度その年に東京で世界エスペラント大会があり豊中市の姉妹都市のサンマテオ(アメリカ)からも 大勢のエスペランチストがやってきて豊中商工会議所で懇親会も行われました。VOAの日本語放送で世界大会に参加するエスペランチストの一人にインタービューの放送もありました。
またその頃に北京放送(今の中国国際放送)でエスペラント語による放送(当時は週に3回)が始まったことを知りました。 早速受信したところ良好に受信でき内容は解りませんでしたが時々習った単語も出てきてエスペラント語であることはすぐに解りました。この時の録音は最後にリンクしてある懐かしのBCLで聞くことができます。

当時の豊能エスペラント会に入会しましたがしばらくしてコンピュータ関係の会社に転職しプログラミングの学習や仕事が忙しくてエスペラントの学習は長期間中断していました。例会にも出席でられるようになって豊中エスペラント会のホームページを担当するようになりました。その頃はKLEG(関西エスペラント連盟)やJEI(当時は日本エスペラント学会)のHPはまだ開設されていませんでした。定年の3年前は川崎市の本社に単身赴任(取り扱いは長期出張)で月に一度は自宅に戻れるのでその時にHPの更新を行っていました。

2000年12月31日から2001年12月31日に開催されたインターネット博覧会(インパク)に出展参加しました。

 

インパク出展者には感謝状と公式記録のDVDが贈られました。

エスペラント関係の出展パビリオン (出展パビリオン総数 507)


●海外の放送で私の名前が読まれた時の録音 

1963年10月 ラジオオーストラリア Listners Mailbag


●エスペラント語放送で私の名前が読まれたときの録音

1998年 ポーランド放送 Leterkesto


2002年5月 バチカン放送 Leterkesto


2002年5月 オーストリア放送 クイズの正解者 (日本人は3人)

クイズに応募したらメッセージと共にCD(4曲入り)が贈られてきました


2007年4月 Radio 3ZZZ (オーストラリア)


トラちゃんの部屋をご覧ください。懐かしのBCL には短波で受信したエスペラント語放送の録音もあります。

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