的場勝英の部屋 

第二回アジアエスペラント大会に
参加して


豊中エスペラント会の的場です。第二回アジアエスペラント大会が今年(1999年)の夏にベトナムのハノイで開催され、1996年の中国の上海での第一回アジアエスペラント大会に続き、部分的ではありましたが、参加致しましたので報告致します。


   今年の大会は 8/22 〜8/26に開催されることになったが、会社の都合で8/23には日本に戻らなければならず、参加には当初躊躇した。しかし、アジアの同朋としてのベトナムへの興味やleter-geamikojとの約束や、既に上海での大会で参加を熱望していたこともあり、8/15に出国し、大会には部分参加ということで決断した。エスペラント旅行団としての参加でないので自分ですべて計画せねばならなかったが、気ままな旅をすることにした。
   旅券、査証も自分で取り、さしあたりホー・チミンに着く予定の8/15のホテルだけを予約した。あとの宿についてはハノイの飛行場で宿の予約を取ろうとも思った(これはとても出来ないことだということが、飛行場で知ることになる)が、インターネットで茨城大学の心理学の伊藤先生が開設しておられる
「茜の部屋」で紹介されているハノイのViet Thang ホテルにe-メールで依頼しておいたが(この場合も確定的なことは言えなかったにもかかわらず、幸いにも「待っています」との返事をいただいた)。また、ホー・チミン滞在期間もはっきりとしなかったことから、ホー・チミンとハノイ往復の航空券はそこに行ってから、ハノイでの滞在期間やハロン湾への観光旅行もハノイに行ってからということにして、勇敢(無謀)にも、関空から8/15 15:30発の日航機でホー・チミンに飛び立った。

 ベトナムへの旅行で一番気にしていたのは、その治安の悪さと非衛生的な環境であった。これらは、我社のベトナム駐在員からしつこく注意されていたことでもあるし、ガイドブックにも繰り返し述べられていた。飛行場に降り立った私は、予想した通り、タクシーの攻勢を受けた。USドルとベトナム・ドンとの混同などで、運転手との折衝に苦労して何とか10USドルから10万ドン(約1000円に相当)に値切らせ、初めて見るベトナムの町を車窓から見ることになった。なんてバイクが多いことか、街路一杯になって警笛を鳴らしながら、場合によっては3人乗りで走っている。車はそのバイクの洪水の中を警笛を鳴らしながら走っている感じである。建物は新旧おり混ぜ、正直言ってきれいな町だとは思われなかった。予約を入れておいたホテルには8時過ぎに到着した。


ホテルから一歩出ると、やはりベトナムだ。歩道に商品を並べて通行人に呼びかける。バ イクに乗らないか、シクロに乗らないか、特に後者がしつこかった。日本にいるときはシ クロには乗るまいと思っていたが、何のはずみか、シクロに3時間乗って後で料金のことでいやな思いもしたが、これも残りのベトナム滞在で良い経験になった。街を歩く時は、ひったくりを警戒し持ち物 を肩からタスキがけにした。街路ではやはりかまびすしい警笛の音がしていたが、その中 で勇敢にもフットボールに興じている一団があった。ベトナムではサッカーが盛んでそん なことも許されるのかとの気もした。

ホテルの近くにあったベトナム航空のオフィスでホー・チミンとハノイ往復の航空券を買 いに行った。この区間の飛行機は混んでいるとの情報があったので、果して今日取れるか との不安があったが、幸いにも夕方のが取れた。しかしハノイまで2時間程かかり、その飛行場から町は遠く(33km)、メールで予約を入れておいたホテルには深夜になる計算である。宿泊したホテルに戻り、そのホテルに電話を入れピックアップを依頼した。「遅いですね」とのことであったが、迎えに行ってあげるとのこと。助けられた思いであった。  シクロでいやな目をしてホテルに帰ってみると、「貴方を長時間待っておられます」と の受付嬢の言葉。UEAのdelegitoであるS-ro Nguyen Do Khahnがソファーに座って今や遅しと待っていて下さった。ホー・チミンでの情報を得るため Jahrlibroで名前を知り手紙を出していたが、 まさか前触れもなく来てくれるとは思いもよらなかった。申し訳ない気がした。部屋でお茶を飲みながら交歓した後、一緒に市 場を覗き食事をした。彼は遠い自宅にバスに乗って帰った。ハノイでの大会には参加で きないとのことであった。


彼と別れた後、もう一度市場に行き買い物をした。歩道でベトナムのノン(すげ笠)やハン モックを買っていると、日本語のとってもうまくしゃべる少女に会った。あんまり上手な ので驚いていると、まんまと彼女の兄の店に連れていかれ、刺繍した布を買わされたが、 あまり損をしたとは思われなかった。彼女は中2位だが、近いうちに東京に行くつもりだと言っていた。

 ハノイの空港ではホテルの主人が私の名の書いたプラカードを持って待っていてく れた。彼の話によると、例の伊藤さんが家族3人でこのホテルに泊まっておられるとの事 。予期しなかったことであり、望外の喜びであった。大会中での同宿はあり得るかも知れ ないとは思っていたが・・・・。  ハノイはホー・チミンに比べ、緑が多く気持ちが良かった。ただ、歩道での商いや食事は ホー・チミンと同様であり、料理カスなんかも路上に投げ出されていて決して清潔とは言え ない。しかし、不思議なことに蚊やハエは見当たらなかった。「夏は暑いので出てこない。その他の季節には出る」どこまで信じていいのか。防虫スプレーを持参したが開封せずじまいであった。マラリヤの危険性もないことはないと言われていたので、気にしていたのだが・・・。ただ最後の日に、ヤモリが数匹天井に張りついているのを見たが・・・。 そこで初めて伊藤さんにも会った。宿の主人からは私に関する情報が行ってなかったのか、伊藤さんも私がエスペランチストであることにびっくりされていた。


  その晩、やはり伊藤さんの日本語の教え子のお嬢さん方がたくさんホテルに見えられた。愛娘茜ちゃんの見舞いとのことであった。その詳細についても、ハノイの文通相手である s-ino Nguyen Hong Nguyen(元内科の女医)や s-ino Nguyen Thi Ngoc Lan(英語・仏語の家庭教師でs-ino Nguyenの友達)のホテルへの訪問、s-ro Damとその仲間の昼飯への招待、その帰りエスペランチストがチーフをしている旅行社(ESPCEN)での歌と踊りについても前出の伊藤さんのホームページ[ 台越韓への旅行( 中)]に詳しく書かれている。伊藤さんの筆まめなことに驚くばかりである。是非ご覧いただきたい。

ハノイは人口約267万人でホー・チミンのほぼ半分であり、比較的小じんまりしていて街路樹が多く、歩きやすい街であった。もっぱら、こっち見あっち見しての街見物であった。ホアンキエム湖は東北1km 東西200mばかりの小さな湖であるが、これが市の東部を歩く時の目印になる。大劇場、革命博物館、歴史博物館、水上人形劇場、ドンスアン市場などがその周囲にある。街路の交差点には交叉する街路のそれぞれの名が大きくだいたい同じ高さの所に書かれていて、地図を見ていれば道に迷うことはなかった。市の西部にも歩いて、ベトナム人に今も「ホーおじさん」と言って慕われているホー・チミンの亡骸が納められているホー・チミン廟、議事堂、ホー・チミン博物館、ホー・チミンの家、軍事博物館などを見て回った。歩き疲れてホテルに帰って、伊藤さんの家族と近くの食堂に食べに行ったこともあった。

大会前にハノイから、ベトナムきっての景勝地ハロン湾の観光に出掛けた。朝早くホテルまでガイドがバイクで迎えに来てくれ、バスの発着場まで連れてきてくれた。バスにはいろんな人種の人が20人程乗っていた。日本人の若者も数人いた。ハロンは日本流に言えば「降龍」となるとのことであるが、ハノイの東方約200km の所にあり海面からニョキニョキと突き出した大小1000余の奇岩のパノラマである。クルーズで島々を見て回った。その一つは全島鍾乳洞となっていて、そのすごさと大きさに圧倒された。
又、かってのベトナム戦争でソ連からの武器の補給基地として使われた島の洞窟の見学もあった。船を島影に止めきれいな海での水泳も楽しんだ。ここで1泊した次の朝、ハノイでの喧騒を離れ海岸に寝そべりゆっくりとした夏休みらしい1日を楽しんだ。ここでは真珠、古い紙幣のコレクション、貝細工した箱などを買った。バスが走っている道路の脇には、田畑が広がり、農家の動力として使われている水牛や牛が放し飼いにされており、それらが道路を横切る時には運転手は警笛を鳴らさずにじっと待っている。さすが田舎に行くとバイクが少なくなり、自動車と自転車が目立つようになるのを感じる。

エスペラント大会が催されるHorisonホテルには8/21朝、宿からバイクタクシーで駆けつけたが、なかなか受け付けが始まらなかった。ホテルのロビーでは大会前のエスペラント的雰囲気を楽しんだ。このホテルに宿泊しておられる池田の岩田さんご家族にもお会いできた。又、私をホテルに訪ねてくれたs-ino Lanが早くから受付の用意等で忙しく立ち働いていた。「何か手伝いましょうか?」「手が足っていますから結構です」。何でも経験という考えで、歩道で店開きをしているおばさんから蒸し餅を3つ買い、コーラで喉を潤した。氷を入れましょうかとのことであったがベトナムの生水が良くないとのことであったので氷は辞退した。

いよいよ5時過ぎより受付が始まった。ここでkongreso sakoを受け取り、詳しい大会の内容を知りもっと時間があればと残念な気が改めて湧き出てきた。残り明日の開会式と主テーマの討論会に出席して、エスペラントの醍醐味を味わおうと思った。

Horisonホテルでs-ino Nguyen と夕食を共にしたが、ここの宿泊人と違うということもあって、結構な値段がし、財布が空っぽになった。歩道で食べるのとは月とスッポンの違いである。

Interkonata vesperoでもう一人のkorespondantinoである s-ino Hoang Thi Chinhと会うことができた。彼女は元学校の先生で、音楽を趣味とし手書きの楽譜を見せて盛んに一緒に歌おうと言う。ちょっと音痴の私には荷が重すぎる気がした。夜、電話でs-ino Nguyenから「昼飯を自宅でどうですか?」とのお誘いがあったが残り少ない大会に十分に出席するということでお断りした。主人(医科大学の生化学の教授)が話しがっているとのことであったが・・・


8/21朝の会に出て、午後いよいよハノイを後にすることになり、ホテルのタクシーサービスを受けハノイ空港に着き、ホー・チミン空港経由で関空に8/22早朝到着した。充実感に満たされ、自分が大変恵まれたことにお世話になった方々に対する感謝の念が溢れた。

  1999/09/28 


関連ページへのリンク

〈水戸日記特別編・台越韓への旅〉(1999年8月)(中編) 伊藤さんの「茜の部屋」
1999年8月18日(水) ハノイ

La Lampiro (Nro 324) 豊中エスペラント会機関誌

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